第三話 ハマナスを世界へ伝えた人たち 



  
       ツュンベリー

  
 C.P.ツュンベリー著、高橋文訳
 『江戸参府随行記』
 東洋文庫583
  平凡社


 
        シーボルト

  
 シーボルトの「日本植物誌」に
 掲載されたハマナス
 日本出身のハマナスは、今や全世界の寒冷地に根を下ろし、あたかも昔からそこにあったかのようにその紫紅色の花を咲かせています。北ヨーロッパや北アメリカの浜辺でまた街路で。

 ヨーロッパに最初にハマナスを伝えたのはCarl Peter Thunberg(カール・ペーター・ツュンベリー:1743-1828)です。ツュンベリーはスウェーデン生まれの植物学者で、ウプサラ大学でかのカール・リンネ (Carl von Linne:1707-1778)に医学と博物学を学びました。リンネは自らの植物分類法に従って世界中の植物を分類することを試みていました。そのために自分の弟子たちを世界中に派遣して植物採集をさせていました。ツュンベリーもその一人でした。
 彼が日本に来たのは1775年、オランダ東インド会社の外科医としてでした。医師として蘭学の指導に当たる傍ら、日本での植物採集にあたりました。当時、外国の船が入国を許されたのはオランダと中国のみで滞在の場は長崎の出島に限られていましたが、彼は日本滞在のわずか一年の間に、参府への旅(参勤交代)に随行して箱根や江戸の植物を採集、長崎の植物とあわせて812種もの植物を採集しました。その中にハマナスも入っていました。
 そこで疑問が起こります。考えてみると彼が行動できた地域にハマナスの自生地はありません。厳重に行動を制約されていたツュンベリーはどうやってハマナスを手に入れたのでしょうか。いろいろ調べてみると植物の採集にはかなり苦労したらしく、出島内で飼われている動物の餌の中から植物をあさったり、薬草が必要と言って嘘をついて出島の外に出かけたりしたようです。そして、ハマナスなど近場では得られない植物は、彼の通詞や彼に共感する日本の学者たちが手助けしたのです。
 ツュンベリーは帰国後「日本植物誌」(Flora Japonica:フロラ・ヤポニカ:1784)を表し、日本の植物に正式に学名を与え世界に紹介しました。その功績から今でも「日本植物学の父」といわれています。ハマナスの他にノイバラも彼の手によって学名が与えられています。
 さて、ツュンベリーによってヨーロッパに伝えられたハマナスですが、彼が持ち帰ったのは標本だけだったようで、その後ヨーロッパでハマナスが栽培されたということはなかったようです。
 ツュンベリーの日本での行動は「江戸参府随行記」で知ることができます。日本ならびに日本人への観察は驚くほど冷静で客観的です。もちろん目にした植物の観察も詳細です。この中にハマナスの記述を見つけることはできませんでした。

 生きたハマナスをヨーロッパに持ち帰った最初の人はどうやらシーボルト(Philipp Franz von Siebold:1796-1866)だったようです。シーボルトはドイツのヴュルツブルで名門の医師の家に生まれました。ヴュルツブル大学で医学や植物学を学び、一度は医師として開業した後、オランダ商館医として日本に来たのは1823年のことでした。シーボルトは出島で鳴滝塾という私塾を開き高野長英、伊東玄朴、二宮敬作などに西洋医学を教えながら、塾生の力を借りて多数の植物を採集しました。出島に植物園を建設しそこに1000種を超える植物を栽培していて、その中にハマナスもあったということです。彼は1829年までの7年間日本に滞在し、植物の研究の他に動物や日本の風俗などあらゆる方面の調査を行っています。また川原慶賀という優秀な絵師を得て数多くの植物画を描かせました。その図はフロラ・ヤポニカにも使われています。その後、彼は禁制の地図を外国に持ち出そうとしてつかまり一年間出島に幽閉された後、オランダに強制送還されます。いわゆるシーボルト事件です。このとき生きたハマナスを持ち帰ったかどうかははっきりしません。彼が帰国後暮らしていたオランダのライデン市に1829年と書かれたハマナスの標本が残っているそうです。
 シーボルトはライデンに持ち帰った植物を育てる温室を作り、その後も出島を通じて多くの植物を取り寄せて普及に努めました。1840年代には再び日本に渡ったようですが詳しい内容はわかりません。ライデン国立植物標本館には、当時の「日本植物販売目録」が残っていて1856年にハマナスが初登場したようです。考えてみるとずいぶん遅かったものです。この年はシーボルトが亡くなる10年前です。1872年には普及し始めたのか値段が二倍になっているそうです。そして1887年にはマダム・ジョルジュ・ブリュアンが登場してハイブリッド・ルゴサ時代の幕開けとなります。
 また、彼もまたツッカリーニ(1797-1848)の力を借りて「日本植物誌」(Flora Japonica)を出版しようとします。本は二篇に分けて刊行され、第一篇は1835から1841にかけて10冊に分けて刊行、第二篇は1842から1844まで刊行されたところで両者が死去し未完となります。その後、ライデン国立植物園長ミクエルが編纂を引継ぎ1870年に10冊分目まで刊行しました。

 現在、ハマナスはすっかりオランダの町並みにマッチした街路樹として定着しているようです。


 2006.2.10 UP
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<参考文献>
<書籍>
『江戸参府随行記』 C.P.ツュンベリー著、高橋文訳 東洋文庫583  平凡社

<ホームページなど>
シーボルトの21世紀 大場秀章  東京大学コレクションXVI シーボルトの21世紀
           http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2003Siebold21/01/010100.html
シーボルト植物コレクションを集大成したミクェル 大場秀章・秋山忍 東京大学コレクションXVI シーボルトの21世紀
           http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2003Siebold21/06/060100.html
「シーボルトの21世紀」展 展示品一覧
           http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2003Siebold21/10/100200.html
日本植物誌 Flora Japonica 京都大学所蔵資料でみる博物の時代
           http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/index.html
5. シーボルトの日本土産  バラの来た道 中国新聞
           http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/Rose/010203.html
出島三学者(ケンペル、ツュンベリー、シーボルト)  長崎薬学史
           http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/history2/history21.html

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