第九話 ハマナスはどのように世界へ広がったのか
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1.ヨーロッパにおけるハマナス
第三話では、ツュンベリー(Carl Peter Thunberg)が「Flora Japonica」でハマナスをヨーロッパに紹介し、実際にハマナスをヨーロッパに持ち込んだのはシーボルト(Philipp Franz von Siebold)だということを書きました。実際、ヨーロッパにハマナスが広がったのはシーボルト以降ですから大筋で誤っていることはないと思います。しかし、本当に最初にヨーロッパにハマナスを持ち込んだのはシーボルトかというと必ずしもそうではないようです。
シーボルトが最初に日本に来たのが1823年でオランダへ強制送還されたのが1829年です。このときはハマナスの標本のみを持ち帰ったらしく、オランダのライデンに1829年と書かれた標本が残っています。ハマナスは種からも容易に栽培できますが、当時それが行われたかどうかは全く不明です。その後、シーボルトは1840年代にも日本を訪れますがその時期以降に大量の日本植物の輸入を始めています。ライデン国立植物標本館には、当時の「日本植物販売目録」が残っていてハマナスが初登場するのが1856年です。おそらくこの間の時期にハマナスが輸入、増殖された可能性が強いと思います。
一方で、ハマナスには正式な学名Rosa rugosa Thunb.の他にもRosa ferox、Rosa kamtchatica、Rosa regelianaなどの学名があります。これらの名前を調べるうちいろんな時期に複数のルートでハマナス、あるいはその交雑種がヨーロッパに移入されていたことがわかってきました。それがツュンベリーのいうRosa
rugosaだとは気づかずに新種として学名が付けられたようです。これらのハマナスについては1800年代、実際にそれを扱ったと思われるLoudon、Ventenat、Thory、Lindley、Andrews、Crepinらによっていくつかの記述が残っています。
2.最初のルートは?
Rosa ferox Lawr.
最初のロサ・ルゴサがいつどのようにヨーロッパへ運ばれたかは定かではありません。18世紀末にR.feroxという名で英国で栽培されたとされています。R.feroxの記録は少なく、Loudon(1844)は「1796年に移入したR.ferox Lawr.,a native of Caucasus」で葉に光沢のある(学名)「nitens Lindl」について述べています。学名にあるnitensは光るの意味です。R.feroxの葉の表現としてつけられたものでしょうか。
Rosa kamtchatica Vent.
一方でナポレオンの妃であったジョセフィーヌの庭師Ventenatが「Description of Plants Cultivated in the Garden of J.M.Cels」(1800)の中でR.kamtchaticaについて述べルドゥーテ(Redoute)の絵を載せています。絵を見る限りそれがRosa rugosaに酷似していることは容易にわかります。Thoryは著書「Prodromus」(1820)の中でR. rugosaはR.feroxやR.kamtchaticaと同一のものであるとしています。おそらくR.kamtchaticaはカムチャッカからフランスに入り19世紀初頭にCelsの庭で栽培されたものと思われます。その後、Crepinの調査によりkamtchaticaは交雑種であるかもしれないとされました。現在ではRosa
davuricaとの自然交雑種とされ、正式にはRosa × kamtchaticaと表記されます。
ルドゥーテはR.kamtchaticaの絵を幾度か描いていますが、Dickersonはそのすべてがkamtchaticaではなく「lardein de Celes」の中でVentenatが説明しルドゥーテが描いているのはkamtchaticaで、「Les
Roses」の中で描かれているのはrugosaだと書いています。(The Ole Rose Adventurer,1999) R.feroxとR.kamtchaticaの違いについて総合的に判断すると、R.feroxの葉には光沢がありR.kamtchaticaの葉には光沢がないことがわかります。
Rosa rugosa Thunb.
ツュンベリーが「Flora Japonica」を著しR.rugosaを紹介したことは最初に書きましたが、これがヨーロッパの植物関係者にはかなり知られていたものと思われます。
しかし、実際にそれを見てツュンベリーのRosa rugosaとわかるのは難しかったかもしれません。従って、別々のルートで入ったルゴサにそれぞれの学名がついたことは他の植物を見てもよくあることで、当時としてはやむを得なかったことでしょう。
R.rugosaの移入に関して最も古い記述は「Botanical Register(1815-1847)Vol 5」にR.rugosaとR.kamtchaticaの絵があってR.rugosaは1796年にLee&Kennedy商会によって、kamtchaticaは1802年にCelsによって持ち込まれたとの記載があります。rugosaの移入した年がR.feroxと一致していることに奇妙さを覚えるところです。
Rosa regeliana Linden & André.
1853年ペリーが来航し日本が下田と函館を開港して以来、各国の植物学者が続々と植物の採集に訪れています。ロシアのマキシモヴィッチ(Carl J. Maximowicz)もその一人で、1860年にウラジオストックから出航し9月18日に箱館(現在の函館)に上陸し箱館、横浜、長崎などで植物採集を行い、数多くの植物を持ち帰っています。当時ロシアのセント・ピーターズバーグにあるImperial
Botanic Gardenの同僚であったEduard Regel教授とJakob Kesselringが1870年代にマキシモヴィッチ由来のR.rugosaを持ち込んだとされています。(‘Regeliana’and‘Kaiserin des Nordens’)それは1871年、MM.AndreとLindenによりRosa regelianaとして発表されました。
3.北米のハマナス
1853年に来航したペリーはモロー(James Morrow)、ライト(Charles Wright)、ウィリアムス(Samuel Wells Williams)の3人の植物学者を連れてきていました。彼らは外交交渉の間、江戸湾、伊豆下田、箱館で植物採集を行っています。翌1854年にはロジャース(John Rodgers)率いるアメリカ合衆国北太平洋探検隊が6ヶ月間にわたって鹿児島、種子島、下田、箱館で植物の採集を行っています。このときハマナスが持ち帰られたかどうかはわかりませんが、アメリカにはない植物として認知されたことは間違いないところです。
R.rugosaの名前が出てくる記録では、1845年に庭の観賞用として移入された(Rehder 1927)という記述があるようです。しかし、これはシーボルトがハマナスをヨーロッパに輸入した年と同じです。日本から持ち出されたとは考えにくいものがあります。想像の域を出ませんがロシア経由ならば可能性があります。だとするとR.kamtchaticaの可能性も否定できません。また、1872年にThomas Hoggが移入した との記述もあります(Patricia Holloway)。アラスカにはシトカローズ(Sitka Roses)と呼ばれるバラがありますが、これはR.rugosaで20世紀初頭に染色用に日本から輸入されたもののようです。
その後R.rugosaはは1899年にはマサチューセッツ州のナンタケット島で自生し、その後わずか10年で急速に広がり、現在ではニューイングランド大西洋岸一帯に帰化しています。
4.まとめと年表
この九話は本当は八話になる予定でした。ハマナスが世界に広まっていく過程をつぶさに調べようということでいくつかの資料でめどをつけていたはずでした。しかし実際は考えていた以上に困難を極めました。その原因は私の英語能力のなさです。そのため十分な文献をあたることができませんでした。そのために断片的な資料を前にジグソーパズルのような作業となり何度も挫折しかかりました。前八話はこの九話を調べる過程で副産物としてできたものです。
さて、上の文中数多くの文献からの引用がありますが、これは実際にこれを読んだわけではなく、下記参考文献の中の引用をそのまま記述したもので、はなはだ心もとないといわざるを得ません。
最後に主な内容を年譜にしてみました。
欧米におけるRosa rugosaの軌跡
1784 |
カール・ツュンベリーが「フローラ・ヤポニカ」でハマナスを紹介 |
1796 |
R.feroxが英国で栽培
R.rugosaがリーとケネディにより移入される |
1800 |
「Description of Plants Cultivated in the Garden of J.M.Cels」(1800)VentenatによりR.kamtchatica紹介される |
1802 |
R.kamtchaticaがCelsの庭で栽培された(上記と矛盾?) |
1829 |
シーボルトによりハマナス標本がオランダに持ち込まれる |
1845 |
シーボルトによりハマナスがオランダに輸入
R.rugosaがアメリカで栽培? |
1853 |
ペリー来航 |
1854 |
下田、箱館開港 |
1860 |
マキシモヴィッチ来日 |
1871 |
R.regeliana発表 |
1872 |
Thomas Hoggによりにアメリカ移入 |
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ヨーロッパでのロサ・ルゴサの分布 |
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ルドゥーテが描いたRosa kamtchatica
「the Roses」TASCHENより
これはルゴサ? |
「Description of Plants Cultivated in the Garden of J.M.Cels」の中のR.kamtchatica(ルドゥーテ)
明かに上の絵とは違います。 |
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2007.5.14UP
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<参考文献>
<書籍>
大場秀章著作選〈1〉植物学史・植物文化史 大場秀章 八坂書房 2006.2
花の西洋史 A・M・コーツ著 白幡洋三郎・白幡節子訳 八坂書房 1991.3
The Old Rose Adventure BRENT C. DICKRSON TIMER PRESS
the Roses PIERRE-JOSEPH REDOUTE TASCHEN
〈ホームページなど〉
Blakwell Synergy BRUUN, HANS HENRIK Rosa rugosa Thunb. ex Murray. Journal of
Ecology 93 (2), 441-470.
http://www.blackwell-synergy.com/doi/full/10.1111/j.1365-2745.2005.01002.x
PLANTS Profile Rosarugosa Thunb.
http://plants.usda.gov/java/profile?symbol=RORU
GEORGESON BOTANICAL GARDEN Sitka Roses Dr. Patricia Holloway
http://www.uaf.edu/snras/gbg/pubs/sitkarose.html
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文中に出てくるこれらの文献は上記参考文献中に引用されていたものです。
「Flora Japonica」 1784:Carl Pehr Thunberg
「Description of the Plants Cultivated in the Garden of J.M.Cels」 1800 Ventenat
「Prodromus」 1820 Thory
「Illustration Horticole」 1871 MM.Andre and Linden
「Les Roses」 Redoute 1824-26
「lardein de Cels」 Redoute、Ventenat
「Botanical Magazine vol.59」
「Botanical Register vol.5」