第五話 ハマナスの歌を集めてみる
「薔薇」とか「ばら」が出てくる歌をあげれば枚挙にいとまがないでしょう。しかし、考えてみると歌の中に薔薇の一品種名が出てくることはまずありません。なぜかといえば、薔薇の名前は人の名前だったりその薔薇の特徴からイメージされた別のものの名前だったりするからです。歌の中にクリスチャン・ディオールやシャッポー・ドゥ・ナポレオン(ナポレオンの帽子)が出てきても何のことだかわかりません。それから比較すると野生の薔薇はまだ自然な名前が付いています。しかし、ノイバラやテリハノイバラ、サンショウバラなどが歌詞として出てくる歌にも私は出会ったことがありません。 外国ではどうでしょう。ゲーテの「野ばら」にたくさんの作曲家が曲をつけています。私は読んでいませんが「赤毛のアン」にもたくさんの薔薇が登場するそうです。しかし、そのどれにも具体的な品種名は登場しないようです。その薔薇は何かを推理して楽しむ人もいるようです。 さて、ハマナスは野生バラの一品種といっていいと思います。ハマナスに関しては誰もがいくつかの歌を思い出すことができるでしょう。さて、どれくらい集まるかという好奇心だけで探してみたところ、意外とたくさんありました。そこで調子に乗って歌から手を広げて短歌、俳句、小説まで拡張してみました。更に過去に遡って和歌や古典文学まで手を広げてみましたが、これは見つけることができませんでした。どうやらハマナスは明治になるまで注目を集める植物ではなかったようです。明治になって外国から入ってくる薔薇という植物に注目が集まり同時にハマナスにも注目が集まりました。その頃から歌や文学の世界にも「はまなす」の言葉が登場するようになります。 それにしても、ひとつの薔薇がこれだけの歌や詩歌の作品の中に出てくる例は他にあるでしょうか。これはハマナスが他の薔薇とは違ったイメージを人々に与えているからではないでしょうか。 |
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まずははまなすの歌
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気が付いたのですが、昭和54年以降ハマナスの歌はなくて、平成に入ってから特に平成13年以降にハマナスの歌が集中しているのにはちょっと驚きました。でも、平成になると私も全く知っている歌がありません。 ハマナスは北海道以外の各地にあるにもかかわらず、ほとんどは北海道を直接イメージする花として歌われています。これは「網走番外地」や「知床旅情」がハマナスと北海道をしっかり結び付けてしまったせいかもしれません。北の最果て、あまり彩りのない海辺にさびしく浮かぶように咲く赤い花の情景は、北海道を表すイメージとして定着してしまったようです。 さて、下に今までとはちょっと毛色の違った歌をふたつ。三木露風の「野薔薇」はハマナスを歌っているといっていいと思います。「ひとこそ知らね」がなんともらしい言葉です。 「根室盆歌」は地元の歌です。実を言うと、市や町の歌、校歌、社歌にもハマナスはたくさん登場しますが。代表でこの歌に登場してもらいました。 |
12.野薔薇 |
13.根室盆歌 -前略- 夏の友知(ともしり) ハマナス咲いて つづく砂丘に コンブ干す 赤いハマナス 情にぬれて 根室娘の 恋の花 -後略- |
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次は小説詩歌のハマナス
詩歌の世界になると、さすがに歌のような画一的で感傷的なイメージはなくなります。もっと個人的な感情とハマナスが結びついた表現になるからでしょう。文学の世界では玫瑰とハマナスの区別は全くないようです。わたしは、啄木の浜薔薇という表現に共感を覚えます。しかし、なぜこのような表現にしたのか気になるところです。 人がこの花を「ハマナス」といっているとき、それはバラの一品種ではなく、浜辺でたくましく生きる植物のすがたそのものです。 |
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○はまなすの棘が怒りて刺しにけり 高浜虚子 ○玫瑰の丘を後にし旅つづく 高浜虚子 ○玫瑰(はまなす)や今も沖には未来あり 中村草田男 ○はまなすのかをりは遠き薔薇のかをり 中村草田男 ○玫瑰に幾度行を共にせし 高野素十 |
○玫瑰や仔馬は親を離れ跳び 高浜年尾 ○玫瑰を噛めば酸かりし何を恋ふ 加藤楸邨 ○玫瑰が沈む湖底へ青の層 加藤楸邨
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2006年3月6日 UP
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