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11.03  2011年04月  11.05


2011/04/30
カツラの花

カツラの花は米粒ほどの大きさで、ほとんど気づかれないのですが、気づくとこんなにきれいです。


2011/04/29
神楽岡公園早春

すっかり雪が解けたから、一刻も早く若葉を茂らせたいのですが、森の大きな樹々たちはがまんしています。

足もとのエンゴサクやカタクリたちが、花を咲かせて実が結ぶのを待っているのです。なんという上品な樹々たち・・・

誰よりも早く、いちばん大きな饅頭を手に入れるあなた!
少しは反省してください。

赤く見えるのは虹ではありません。
カツラの花が咲き始めたのです。


2011/04/27
穴を開けたのは誰だ!

神居古潭の山の斜面の、トドマツの枯れ木です。

上は半分くらいから、引きちぎられたように折れています。
そして目の上ほどの高さに、不思議な穴があいていました。

クマゲラが突付いたにしては、左右の壁がまっすぐになっているし・・・
人がノミを使ったのだとしたら、上下も真っ直ぐになるだろうし・・・
人だとしたら、いったい何のために???

神居古潭の神秘。


2011/04/25
藪影に

 信 号   三好達治

『小舎の水車 薮かげに一株の椿 新しい轍(わだち)に蝶が下りる
 
それは向きをかへながら
静かな翼の抑揚に 私の歩みを押しとどめる

 「踏切よ ここは…」 私は立ち止まる』

私が子どものころ、山女が釣れる川に、
両側が丸太の、頑丈な橋がかかっていた。

その道はかすかに曲がって、丸太の橋へと進んでいた。
通るのは馬車だけだった。

火山灰質の道は、雨が降っても泥んこにはならなくて、
かすかな水溜りが出来るほどだった。

馬車が通ると、白っぽい色の道に轍(わだち)ができた。
二本の轍はたしかに線路のようだった。

大雪山麓には椿がないので・・・
藪影に一株のカタクリ!!!


2011/04/24
山のこいのぼり

大雪山の山麓で、こいのぼりがおよいでいました。
そうか、もうすぐ端午の節句だ。

松の根元にはまだ雪が残っています。


2011/04/23
春が来た!

「ぴ〜〜〜!!!」と鋭い声で鳴いたのはゴジュウカラです。
体は小さいくせに大きな声です。

弱ってきた冬がビクッとしたようでした。


2011/04/22
笹とカタクリ

雪が融けて、きょねん落ちた枯葉のなかに、カタクリを見つけた。

むむむ・・・この笹とカタクリは親子のようだ。


2011/04/20
早春

待ち望んだ春が、
今年は早めにやってきたようだった。

冬が去ったのを確かめて、
草木がおそるおそる芽を出したら、

冬は突然、丘の向こうから引き返してきて、
ふ〜〜〜と冷たい息を吹きかけた。


2011/04/19
一年生

ちかごろ、新しいランドセルをぎこちなく背負って、ふざけながら歩く小さな子供たちに出会うことがある。
そうか、ついこのまえまで幼稚園だった子供たちが、小学校の入学式を迎えたのだ。今日の余禄は「ランドセル」という詩を紹介していた。

「 ランドセル    石垣りん

 あなたは 小さい背中に
 はじめて 
 何か、を背負う

 机に向かってひらく教科書
 それは級友と全部同じ持ちもの

 なかには
 同じことが書かれているけれど
 読み上げる声の千差万別 
  
 入学のその翌日から
 ほんの少しずつ

 あなた達のランドセルの重みは
 違ってくるのだ

 手を貸すことの出来ない
 その重み

 かわいい一年生よ   」


北帰行をする白鳥の群が飛んでいった。
黒っぽく見えるのが、白鳥の一年生。


2011/04/17
春の雪

おとといの気温は18℃もあったのに、なんと!今日は雪が降っている。春の雪だ。

せっかく咲いたクロッカスが「お〜〜〜寒い」と、その華奢(きゃしゃ)な体を硬くしていた。


2011/04/16
おっとと・・・

雲雀より 空にやすらふ峠かな   芭蕉

芭蕉が45歳のとき、奈良県吉野の細峠(ほそとうげ)で詠んだのだという。

峠で一服していたら、雲雀の声が聞こえてきた。
なんだかおかしいなと思ったら、

自分のいる所より下の方から雲雀の声がする。
妙な感じだ・・・

同じ経験があるような気がする。


2011/04/15
ヒバリの決闘

歌ってばかりはいられません。


2011/04/14
ヒバリの行進

前を向いて進もうと、武田邦彦は語った。
http://takedanet.com/2011/04/post_074a.html

放射性物質がついた福島の瓦れきを川崎に運搬することは、放射性物質をさらに飛散させるという意味で良くない方向であることをブログに書きました。
福島の人は原子炉の事故で大きな打撃を受けましたが、それは福島だけではありません。程度は違いますが東京も川崎も同じように放射線で汚染されたのです。
・・・・・・・・・
福島原発からの放射性物質の漏れも次第におさまっているので、特別な爆発でもない限り連休開けにはかなり安全な状態になると思います。
次にわたくしたちがしなければならない事は、「放射性物質で汚染された福島の地域をできるだけ早くクリーンにする」ことです。
放射性ヨウ素は半減期が8日ですから、しばらくするとほとんどなくなりますが、それに続くセシウムとストロンチウムは半減期が30年ですから、そのままにしておくと30年間、福島は汚染したままになります。
放射性物質の半減期は物理的に決まっていますから、それは変える事ができませんが、人間の手でクリーンな福島を取り戻すことはできます。
できるだけ早く手をつけてもらいたいとわたくしは希望しています。今、福島の人はとても気持ちが追い込まれて「放射線は健康に影響がない」と信じたい気持ちでしょうが、被曝はできるだけ少ない方がいいのです。
・・・・・・・・・
わたくしは川崎の瓦れきの処理で書きましたように、早く福島に放射性物質をとることができる焼却炉とプールと蒸留設備を作ることと考えています。
今度の原発事故というのは、放射性物質という意味で言えば、「福島原発の中に閉じ込められていた放射性物質」が「福島県の東部や茨城県の北部、さらに東京、仙台まで広く拡散した」ことを意味しています。
今度はそれを「人間の手で再び福島県発の敷地内に戻す」ことによって、「クリーンな福島」を取り戻すことです。
そのためには、福島原発の敷地もしくは近郊に「焼却炉とプール、蒸留設備」を作り、そこに汚染されたものを集めます。
まず、燃えるものはどんどん焼却炉で燃やして、煙の中の放射性物質をフィルターでとります。また燃えないものは、プールの横で水で洗浄し、その水をいったんプールにためます。
プールにたまった水は蒸留装置で蒸発させ、放射性物質を集めます。政府と福島県が決意をして今からすぐやれば、放射性物質で汚染された福島はどんどんクリーンになっていくでしょう.
技術はすでにありますし、設備については全ての費用を合計しても200億円から400億円ぐらいで済むでしょう。だから国と福島県がやる気になれば直ちに取り掛かれると思います。
・・・・・・・・・
福島の人はまた別の考えがあるでしょうが、わたくしは、今の福島の人の考え方・・・放射線の被曝は健康に影響がない。そして我慢しよう・・・というよりも、むしろ積極的に放射性物質を除いてしまった方がいいと思います。福島の人、子供の被曝量は少ない方が良いからです。
また、今回の原発事故は、日本の国内ばかりでなく世界の国から日本の大地が汚れているという印象を植えつけました。
その点では、まず福島が日本の先頭に立って放射性物質を除いてクリーンになることです。学校の校庭も、校舎もどんどん「除洗」していけば、子供の被曝量も減り、田畑も再び使えるようになります。
菅首相は「福島の土地は数10年使えない」と言ったそうですが、そのように後ろ向きになることなく、前向きに放射性物質を直ちに取る作業を開始することを勧めます。
(平成23年4月14日 午前8時 執筆) 武田邦彦


2011/04/12
オオタカ

俺が倒した!と言っているようです。
まさか・・・


2011/04/10
越冬したヒオドシチョウ

神楽岡公園を散歩していたら、
越冬したヒオドシチョウが、樫(かし)の枯葉にとまっていた。

翅(はね)が痛んでいるのは、
雪深い冬を凌(しの)いだからだ。

見つめている私に、
楚々(そそ)としたご婦人が近づいてきた。

「越冬した蝶がいます」と言ったら、
「ちょうですか」と答えて、しばらくして笑った。

わかるかな〜〜〜


2011/04/08
芥川龍之介 「大震雑記」(『中央公論』大正12年10月)

「僕は丸の内の焼け跡を通つた。」と芥川龍之介は語った。
大正12年の関東大震災直後のことだ。

ここを通るのは二度目である。この前来た時には馬場先(ばばさき)の濠(ほり)に何人も泳いでゐる人があつた。

けふは――僕は見覚えのある濠の向うを眺めた。堀の向うには薬研(やげん)なりに石垣の崩(くづ)れた処がある。

崩れた土は丹(に)のやうに赤い。崩れぬ土手(どて)は青芝の上に不相変(あひかはらず)松をうねらせてゐる。

そこにけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興に泳いでゐる訣(わけ)ではあるまい。

しかし行人たる僕の目にはこの前も丁度西洋人の描(ゑが)いた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日もそれは同じである。

いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、いっそう平和に見えた位である。

僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。

歌は「懐しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。

僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。

少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。

芸術は生活の過剰ださうである。なるほど さうも思はれぬことはない。

しかし、人間を人間たらしめるものは、常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に、生活の過剰を作らなければならぬ。

更に又巧(たく)みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。

 僕は丸の内の焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦(また)焼き難い何ものかだつた。

写真は春の渡りの途中の鴨たち。
手前はコガモ。上の左はオナガガモ。
そして真打トモエガモ。


2011/04/07
舞うヒバリ

雲雀は春に北国にやってきて恋人を探します。
そのためには、まず縄張りをつくらなければなりません。
ここは俺の縄張りだと、舞っているのです。


2011/04/06
ヒバリ飛ぶ

新約聖書の中の聖パウロの書簡の中には、「喜べ!」という命令が繰り返されていると曽野綾子は語った。

私たちの日常には「喜べ!」と命令されることはない。
感情は具体的な行動と違って、外から受ける命令の範疇外のことだからだ。

だからそれは、人間が命令されれば心から喜ぶということを期待しているのではないだろう。

喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ。

人は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。

しかし、今手にしているわずかな幸福を発見して喜ぶことは、あまり上手ではないのである。

私は、戦争中に日本全体を覆った命の危険と貧困にさらされて子供時代を生きた。それは今にして思うと私にとって大きな贈り物であった。

私は皮肉にも危険と苦悩から人間としての成長を遂げた。
約40年後、私はアフリカの貧しい土地で働くカトリックの修道女たちの支援をして、その結果を確認に歩く仕事をするようになった。

アフリカの田舎の暮らしの実態と今の日本を比べてみて、いくつもの点において、自分たちに与えられている物心両面の豊かさを感謝し、聖書が命じるように「喜んだ」のである。
それは・・・と続いている。

かけがえのない家族を亡くし、仕事の基盤も住まいもなくした人にとって、失ったものを回復する以外の慰めなどないが、
それでも、人間は今日から別の道を見つけて歩き出さなければならないのだ。

北国に遅い春がやっと来て、始めてヒバリが飛んだ。


2011/04/05
北帰行

むかし、小林旭が歌った「北帰行」は、一人旅の流れ者だったけれど、
鴨は団体行動です。

「北帰行」の原詩は、旅順高等学校寮歌で、
作詞・作曲は宇田博というバンカラと自由を愛する学生だったといいます。
旅順高等学校を退学になったとき、友人たちへ決別の歌として贈ったのだという。
宇田はその後内地に渡り、旧制一高を卒業し、東京大学を経て、東京放送(TBS、現・東京放送ホールディングス / TBSテレビ・TBSラジオ)に入社し、後に同社の常務・監査役に なった。

1 窓は夜露に濡れて
  都すでに遠のく
  北へ帰る旅人一人
  涙流れてやまず

2 建大 一高 旅高
  追われ闇を旅ゆく
  汲めど酔わぬ恨みの苦杯
  嗟嘆(さたん)干すに由なし

3 富も名誉も恋も
  遠きあくがれの日ぞ
  淡きのぞみ はかなき心
  恩愛我を去りぬ

4 我が身容(い)るるに狭き
  国を去らむとすれば
  せめて名残りの花の小枝(さえだ)
  尽きぬ未練の色か

5 今は黙して行かむ
  何をまた語るべき
  さらば祖国 わがふるさとよ
  明日は異郷の旅路
  明日は異郷の旅路


2011/04/03
太郎と花子の木

春が来ますよと、
神楽岡公園の太郎と花子の木。


2011/04/01
耐え抜いた蝶

むこうが白いのは、雪が積もっているからです。
今日は4月1日。

東京からは桜の便りが届けられますが、大雪山麓はまだ深い雪です。

大雪山麓の清流に架かる橋の、錆びた欄干に、
エルタテハがとまっていました。

マイナス30℃を越える厳冬を耐え抜いて、越冬した蝶です。
たいしたもんだ。

日本国もこのか弱き蝶に学んで、再び、
堪へ難きを堪へ忍び難きを忍んで、頑張り抜こうではありませんか。




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11.03  2011年04月  11.05


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